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今年もいよいよシーズンインといった日々となり、畑で作業の毎日を送っている。

ここ数ヶ月、文章を書く時間を意図的に少なくしており、思考が鈍重。書き方を変えようと思案。重たく曇った頭で書く暗中模索。

独立営農して4年目までの、ゆうすけが居てくれた時期を、わけも分からず突っ走った創業期とすると、今シーズンで卒業する池さんとこうへいさんが居てくれたここ3年ほどが、第2期といった感じで、経営の実際に自分自身をアジャストさせていくための時期になっていたなと思う。先日、スタッフ募集をアナウンスした。新しい出会いに期待しながら、自分たちの仕事を洗練させていくための第3期となるだろうか。出会いの化学はどんな反応を導くだろうか。うかうかしてるてどんな顔?

自分がここで農家になり、こうしている現在は、とても不思議だ。言うなれば、たまたま偶然こうなったとしか思えない。成瀬巳喜男の「浮雲」が好きだ。流れ流れてどこへ行く。安きに就いたわけではないとは、思う。アフリカから人類が移動して歩いたように、生きていける場所を探して、流れてきた。ここへ。途中、運良く死にはしなかった。辞めるのもそれなりに勇気とエネルギーが必要だった。土下座もした。ギャグみたいな過去の話。土下座ベイビー大地のバイブスひれ伏した。

居合わせること。引き当てることも才能だとマヒトゥーザピープル。それをとりあえず運命と言い換えてみれば、偶然に戦慄を覚える。成功を自信にのみ結びつける男根主義者に不信を。

戦友は祖父の隣で銃弾を受けた。普段は割にしょうもないこと言いな爺さん、運命ぞと俺に言い聞かす。それはしょうもない祖父なりの忠告だったのかいや、運命と才能って使い方と文脈次第でだいぶんまずい印象になりゃせんの。まいいさ。教育者でも学者でもねえ。

南洋に行こうと森雅之。ハワイの夜はクレイジー剣さん。カウリスマキまでは記憶の隙間。そりゃ過去のない男。浮雲じゃない。だいたい流れるだと思っていた。記憶混濁こんこんと。イマジンオールザピープル。

一人目の子は早和子。リヴィングライフインピース。

二人目の子は千景(ci(hi)ro)。千の光千の影千の景色。映画のことだね。

これにてボヌム中の人の自己紹介とさせて頂きますれば

どうぞ偶然が良い出会いに届きますよう。

この手紙が誰かの琴線に居合わせてくださいますよう。



2021年4月2日深夜

#アキ・カウリスマキ









東日本大震災から10年が経った。

自分は語るべきものがあるわけではないけれど、節目にその日のことを書いておくことにする。

地震が起こったときは、恵比寿の喫茶店で打ち合わせの最中だった。

恵比寿を出た後、どういう経緯だったのかは忘れたのだけれど、徒歩で取引先の人たちを訪ね歩いた。 途中疲れ果てて、赤坂の富士そばで温かいそばを食べた。

結構遅い時間帯だっと思うけれど、店内は帰宅困難者らしき人々が沢山いて、皆黙って食事をしていた。店員さんたちはいつもの風情で黙々と注文をこなしてくれていた。

とてもありがたかった。ごちそうさまでした。ありがとうございましたと言って、店を出た。

住んでいたアパートはたまプラーザが最寄りだったから、自分も帰宅困難者だった。渋谷あたりまで歩いてから、これはいよいよ帰れそうにないぞという人混みになり、取引先のレストランを訪ね歩きながら始発までやり過ごすことにした。

多分、みんなの無事を確認したかったのだと思う。というより、自分は心細かったのだと思う。


レストランに関係して生きてきて、今もレストランに関係させていただいて、生きている。

あの日、揺れの後も、ほとんどのレストランは営業していた。みんな帰れないかもしれなかったのに。


光を灯し、人々が集い、食事を提供する温かい空間で、あの災害の日も私は救われた。

未だコロナ禍の最中にあって、集えないということの心寂しさが、実店舗のありがたさに気づくきっかけになればと思う。というか、肌感覚として心地よくなれる空間にいるという体験がいかに自分の人生を豊かにしてくれているのかに思いを馳せる。自分が関係していたいもの、守りたいものを守る努力を続けようと思う。


あの日富士そばで食事を提供してくれたひとたち

あの日訪れたレストランで相手になってくれたひとたちに、改めてありがとう。


2021年3月13日



このBLOGが商売っ気がなくていい加減どうしようと思っています。

で、考えたら仕事のことをあまり書いていない。イタリア野菜作るのが好きだったりの説明というか、自己紹介的なことをあまりしていないことに気づきまして、書きなぐりました。

今回は、なんでイタリア語?というか、イタリアの食文化なのか私とボヌムの興味が。というところの自己紹介的な文章です。より一層商売っ気のない文章になるかもしれませんがお付き合いくださいますと嬉しいです。


えー

中学高校と、どうしてもどうしても英語が嫌いで、英語が自分に強いると勝手に感じていた人格が嫌いで、要するに肌に合わなくて、その人格が。

俺だけ?なんだろう。無理にでもはーい(Hi)!って言ってなきゃいけないような気になってしまって、どうしてもその人格の変更が辛い時期で、やりきれなかった。

で、わたしは京都で大学生活を送るんですけれど、物書きになりたくて芝居をしていまして、下手な脚本書いたり、役者もやったりなどと、日の光なんて見れないぜアンダーグラウンド。はじけらんねえぜオルタナティブ。な日々に鬱屈と性欲と自己嫌悪と間抜けと自堕落と怠惰と傲慢を混ぜてシェイクしたような涙で前が見えなくてそんなボクチンは10cm顔をあげようね♥と自分に言ってあげたりしながら、ほとんど躁鬱手前の2000年代前半を映画を観たりして、ぼんやりすごしていました。

そんな頃の彼女の助言で、サービスの仕事をすると人間的にとても勉強になるから(お前ヤバいから)ということで京都でバイトに入ったイタリアンレストランで出会ったのがイタリア語なんですけど、あんまりそのー、無理な人格変更を感じなかったんです。

って書くとまるでイタリア語が話せる人のようですけど、話せません。料理用語と食材用語と挨拶とスラングしか知りませんけども。

それに音でほぼ綴りまでわかるという入り口の手軽さとかが良かったんですけども。


その後仲の良いイタリア出身の友達が二人出来たり、シェフの森さんに良くしてもらうなど好運な出会いのお陰で、まずワインが面白いなと思ってぜんっぜん飲めないけど、少しづつ勉強していって、そこでそのぶどう品種の多さに驚いたわけです。

すごく乱暴にまとめると、フランスのエレガンスの極みの様なワインの造りに対して、もっと土着の物への偏愛によるローカルな作りの文化といいますか。(2000年ころの当時はガレージワインみたいなブームは、たぶんまだ無くて、フランスのガレージ的なのはあまり入ってきてなかったんだと思います。フランスワインをディスっているわけではございません悪しからず。)

だって国際品種なんて両手の指で数えられるくらいのものだけど、イタリアのぶどう品種は3000あると言われているくらいですから。

もともとローマ帝国の中心ですから、世界の中心だったところですけれど、そんな国が、イタリア料理なんて存在しない。あるのは20州の、いやそれどころかコムーネ毎の料理だけだ。否マンマの料理だけだなんて言われて、おまんまなだけに、なんてローカルな偏愛に満ちた食文化。なんだろうこの魅力は!と。英語(アメリカ)は世界と俺の人格まで無理にねじ曲げようとしてやがりやがるのにも関わらず(←偏った憎しみすなわち偏憎。偏憎は炎上の素。)、このオルタナティブ。最高でしょう。最高。


オルタナティブウェイオブライフ。英語だけど。fuck改めcazzo。

という思考の流れのあれがこうなってイタリア文化というか、testadicazzoというか、ローカル主義者というか、オルタナティブなあり方を愛する様になりまして、わたくしは彼の国の文化がとても好きになってしまったのです。これは安易に多様性とか言ってしまうと急に政治的になってしまって嫌でして、愛ですね。偏愛。偏愛の文化。そこからみた日本の文化、照葉樹林文化、寒冷地の文化、島国の文化、信州の文化、北信の文化、佐久の文化、諏訪の文化、わが家の文化、自分はどこから来てどこへ行こうとしているのか。そういう興味。結局の所自分にしか興味がないとも言えますけども。

いちおう、西洋哲学の勉強を専攻してましたので、やっぱり大陸一神教文化背景と島国アニミズム文化背景では違うわけで、どちらがいいとか悪いとかではなくて、鏡に丁度いいといいますか、良さと悪さを両方見た上で現状に根ざしながらより良い方へ行きたい。身内のサビを落とすなり磨くなり襟を自ら糺すのが良き道やろと。誇りとホコリが叩けば一緒じゃアホが粋がれ情けないやろおんどりゃぁがあがあ。


この文章がどこへ行こうとしているのかよくわからなくなってきましたが、わたくしが鬱屈としたルサンチmanから偏愛主義者へ変態しようともごもご動いているきっかけを与えてくれた興味の対象がイタリアの食文化なのでしたとお伝えしたく、今回のブログを書きました。

なので今でもわたしのInstagramのタグはなるべくイタリア語になってます。

愛だよ愛。 偏愛を語れ!


佐久臼田のpagopagoっていうパチンコ屋が、むしり取る気満々で好きさ。


2020/11/29



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