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執筆者の写真飯島朋彦

根本的な不信。自分自身に対しての。ダラダラまとまらない思考の垂れ流し。

秋。夜長。昔話。

物書きになりたくて、芝居に関わっていたことがある。

書き手としても演者としても演出家としてもイケずに終わらせてしまったなと思う。

苦い。

ま、そのことは横に置いておいて。


2003年

京都芸術センター主催で、松田正隆の戯曲「海と日傘」を、日本と韓両の両国の若手演出家がそれぞれに演出し、上演するという企画があり、その舞台を観る機会があった。

その舞台の日本側の演出を担ったのが、当時たぶんまだ青年団の所属だった演出家で地点立ち上げ前後の時期の三浦基だった。

その手法は当時の自分にとって、とても衝撃的で、強く印象に残った。

20年近く前の1回制の強い舞台の話。ネタバレを含ませてもらう。


まず、その舞台美術の仕立てが周到で、幕ごとに使うちゃぶ台が4台。上手側から順番に幕ごとにちゃぶ台を囲んだ芝居が進んいくのだが、妻と過ごす日常に使用する湯呑や新聞などの小道具がその幕その幕ごと、ちゃぶ台の上に残されていく。「過去」が「物理的」に舞台上に残されたまま、次の幕へと舞台上の時間は過ぎていく。

困惑。違和感。

当時、なにが衝撃的だったのかというと、全て物理的に処理したその手法。

物語の最後に、垣根の向こうを白い日傘が行く。

亡くなったはずの妻の幻影…の様に見える他人であろうと推測される偶然(日傘)を物理的に見る観客と、その日傘を持つ歩き行く女性に声をかける主人公。そしてエンディングでちゃぶ台に残された過去の湯呑や新聞に主人公は突如、物理的な侵入を果たし、妻と過ごした過去に手を触れつつ片付けるのだ。

鮮やかだと思った。

とても映画的な手法だと思った。

演者の心の動き、情緒とはかけ離れたところで行われる演出方法。表象されるものこそがすべて。


そしてその後に行われた三浦基のワークショップでさらに衝撃をうけた。


彼はそのワークショップのなかで、僕を含む20人くらいの参加者に大縄跳びをさせた。

二人(これもワークショップ参加者)が架空の縄をまわし、それを参加者が、縄を想像して飛んでいく。

一人づつ入っては飛び、入っては飛び、一通りみんなで架空の縄を想像しつつ、縄跳び。いろいろやったあと、最後に皆で一緒に架空の縄に入って飛ぶという大団円。一種の高揚感とともにみんな拍手して終わり。

演劇をしたことがない人も含めたワークショップだったからか、三浦基は、これが演劇ですみたいな事を言った。架空の縄をそれがあるものとして飛ぶことが演劇ですと。みんな入るとやっぱり盛り上がるよねー。

そのあと、彼はポロッとこういう趣旨のことを言った。


ただこの高揚が全体主義の萌芽なんだけどねー。


(本当にポロッと漏らしたというかんじで。肝心の言い回しを、僕自身うろ覚えなのが残念だ。その言い回しこそが衝撃的だったのに。)


このとき僕が受けたショックは一種の恥辱の感情を含んだものだ。

アーレントやスタンレー・ミルグラムの服従実験については学んでいたはずなのに。群れることが嫌いで、いろいろなことに距離をとってきた人生。容れないことにコンプレックスを持っているくらい、ヒネた屈折のあるこの自分がまさか、全体主義的な高揚を感じるなんてというショック。。大げさといえば大げさな言いようだけれど、何かを得ようと加わったイベントで、皆と一つの幻影を観て参加し高揚を覚える事が全体主義の危険性の本質とさほど遠くないと体験させた手腕は見事だと思った。し、あれほど嫌悪していたはずの全体主義に対しての自分自身の距離を信じられないと思った。

と同時に、嵌められた、というか見られたという恥辱の感情。

彼は才能のある芸術家で、人間に対する洞察をワークショップの形で実験することが可能な怖さがあり、それは興味本位の悪意に近い毒でもあったように思う。それにまんまとハマったという恥辱の感情と鮮やかな手法に対する嫉妬、彼に対する畏敬の念。


ーと、ここまでの感想と印象が、つい最近までの、この20年近くも前の体験に関する、記憶の扉。自分自身に対する根本的な不信の記憶。不信の軛。自戒。イカされたブレヒト。


彼の言葉を、かなり乱暴な断定だということは簡単だ。

人々を力づけ、奮い立たせ、高揚させる言葉で世の中も変わってきた。キング牧師の演説の美しさと力強さに打たれることと、ヒトラーの演説に打たれることを、全くの同列に語るのはどうなのかと問われれば、ごもっともだ。だけれども、本質的に同じ作用だと身を持って気付かされる、突きつけられることの衝撃。その体験を、忘れることは出来ない。


人々は時に奮い立たなければならない。搾取や権力の横暴に抗う人間の高揚とエネルギーの力は尊いと思っている。人を力づける言葉の力を信じている。

が、しかし、今、何かをともにおこなおうと、事業を行っている自分は、従業員という立場になってくれる人たちにどのように情熱を伝えたら良いのかが、一種の気恥ずかしさと自分自身に対する不審の感情とを伴って、うまくできないでいる。


というか、上手くやってはいけないのではないかとさえ思っている。

経営と情熱のような話に全く乗れない。けっこう頑張って考えていたと思うけど俺、辞めた。降りることにする。

胡散臭くてかなわないのだ。

人々が奮い立たねばならないとすれば、それが、手前の小金稼ぎのためか耳に優しいどこかで聞いたことのあるお話でいけるか?それは失礼なんじゃないか?つまらないこと言うな。


この辺の一連の思考の流れは、「自由であるための身振り」に関係している。

三浦基のワークショップを経た自分にとっての、自分自身を信じられないという自戒の態度と、願わくば、関わる人全員がそれぞれにとっての「自由」で繋がっていたいと望むこと。それは、経営学の文脈ではなくて、文化人類学に学ぶ形でのつながりの構築だ。それが僕が自分の人生を通して模索していることだ。


2021年現在-

世界はキャンセルカルチャーの波に揉まれているような文化社会状況で、どうやら三浦基はやらかした側にいるらしい。この文章を書いていて、最近ググって知ったこと。困惑。


なんどか、この文章を下書きに残したまま。数週間放置。今、この終わらせ方に困っている。自分が如何に自分自身を信じられないと思ってるのかという内容を書こうとして書き始めた文章。三浦基という人物にたいする余計な情報のせいで思考が歯切れよく結べなくなってしまった。


少し複雑な感慨。キャンセルカルチャーの起こった文脈自体は、理解できる。多分、ちょうどバブル崩壊から就職氷河期を経験しているくらいの世代の人間は、少なからず、ハラスメントの空気が残る社会の下で生きてきて、下の世代にそれらを残したくないと考えて今の空気をある程度歓迎しつつ、ここで終わらせるための緩衝地帯にならなければいけない辛さがあるように思う。俺らは受けてきたというルサンチマンが、僕自身の感情として存在する。けど、それは端的に馬鹿げたものだと理解もしている。そういう割りの悪さを飲み込もうとしている同世代を、信頼している。

だから、才能とちょっとした権力に惑乱されて、やらかしてしまった行為自体はもちろん、責めされるべきものだ。ただー


後悔や悪しき行い、罪悪感。それら負の行いや感情が全く無い人間なんているだろうか。

自分は全くの白だと、白いものだと、言い切れる人間もまた信じられないのだ。


歌う歌の苦い光照らす国のしろいもの

ありふれている私達が暮らす国のしろいもの※1


世界は現状。事実。少なからぬ搾取とそれを覆い隠そうとする言説で成り立っているというのに。

いったいどんなドヤ顔で無関係の人間が他人を叩く?ひとの心に巣食う罪悪感や後悔の念に付け入り心の問題に立ち入るなんてことは自己開発セミナーか新興宗教の使う洗脳の常套手段。唾棄すべきもの。


しろいものの気味の悪さ。。。


そうか。あれは、あの体験は、彼の被験者になるという意味で、彼から受けた一種の暴力であったのか。

そう捉えても良いのではないかと訝しく思えるのは、2021年の今、彼のハラスメントについての記事を読んだから。単純。なんという変節と笑える俺よっ!変節漢。

20年近く後生大事に抱えていた重要な記憶ですらその認知が歪む。彼を恨むような体験ではないし、今でもとても才能のある演出家だと思っている。僕個人の認知など、環境、情報、取り巻く状況で簡単に変わる。


ただ、それは、記憶を、現在と望むべく未来へ向けてポジティブな形で取り出すための再編でもある。時間が現在から過去へ向かうのは、その固着を奪い取るためだ。フロイト批判。反復脅迫。反復すべき過去など存在しない。


無垢と世間知らずを唾棄すべきものだと戒めたイオセリアーニにビンタを喰らいながら、気合だー!俺は、なんとかこの世界で、気持ち悪さを見つめ言葉を探りつつ、いい具合の間すなわち、「適当」を求め続けたいと思う。


2021年11月7日深夜


※1 tenniscoats 「しろいもの」より拝借

https://youtu.be/2fkhvX2N9us








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