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あの日富士そばで。

執筆者の写真: 飯島朋彦飯島朋彦

東日本大震災から10年が経った。

自分は語るべきものがあるわけではないけれど、節目にその日のことを書いておくことにする。

地震が起こったときは、恵比寿の喫茶店で打ち合わせの最中だった。

恵比寿を出た後、どういう経緯だったのかは忘れたのだけれど、徒歩で取引先の人たちを訪ね歩いた。 途中疲れ果てて、赤坂の富士そばで温かいそばを食べた。

結構遅い時間帯だっと思うけれど、店内は帰宅困難者らしき人々が沢山いて、皆黙って食事をしていた。店員さんたちはいつもの風情で黙々と注文をこなしてくれていた。

とてもありがたかった。ごちそうさまでした。ありがとうございましたと言って、店を出た。

住んでいたアパートはたまプラーザが最寄りだったから、自分も帰宅困難者だった。渋谷あたりまで歩いてから、これはいよいよ帰れそうにないぞという人混みになり、取引先のレストランを訪ね歩きながら始発までやり過ごすことにした。

多分、みんなの無事を確認したかったのだと思う。というより、自分は心細かったのだと思う。


レストランに関係して生きてきて、今もレストランに関係させていただいて、生きている。

あの日、揺れの後も、ほとんどのレストランは営業していた。みんな帰れないかもしれなかったのに。


光を灯し、人々が集い、食事を提供する温かい空間で、あの災害の日も私は救われた。

未だコロナ禍の最中にあって、集えないということの心寂しさが、実店舗のありがたさに気づくきっかけになればと思う。というか、肌感覚として心地よくなれる空間にいるという体験がいかに自分の人生を豊かにしてくれているのかに思いを馳せる。自分が関係していたいもの、守りたいものを守る努力を続けようと思う。


あの日富士そばで食事を提供してくれたひとたち

あの日訪れたレストランで相手になってくれたひとたちに、改めてありがとう。


2021年3月13日



 
 
 

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