おふくろの作る卵焼きは砂糖を入れた甘いタイプのものだった。
親父が甘いタイプが好きだったから。
俺は醤油ベースのしょっぱいタイプが好きだから、不満だった。
お弁当の卵焼きをいつも同級生のしゅうぞうくんと交換していた。
しゅうぞうくんは甘い卵焼きが好きで、彼の家の卵焼きは醤油ベースタイプだったのだ。
その後いい大人になってから振り返って、おふくろの作る卵焼きが甘かったことは、いい話だと捉えていたし、今でもそれ自体そうあってくれたこと、つまり、自分の子供ではなくて、連れ合いの好みを尊重してくれていたことを、良いことだと捉えて、自分の持っている物語の中では、完結したひとつの話になっている。
妻と結婚する前に、この話を妻にしたことがある。
自分は、親より子より、なにより、自分の連れ合いを尊重するつもりでいるし、そういうつもりの話として、卵焼きが甘かった話をしたことがある。おれもそのように、妻を尊重するつもりだと。
で、落ちを先に言ってしまうと、妻の卵焼きは甘い。
なんのことはない。子供がそのほうが好きだから。
妻は、俺の物語に回収されることをひどく嫌う傾向にある。
たぶん、俺のことがそんなに好きではないのだろう。
いや、好きか嫌いかはこの際どうでもよいのだが、俺の物語に回収されないようにしている節に腹が立つこともあったし、もう少し歩み寄ってくれても良いのではないかと切なくなることもあったのだが、この人のこの傾向を、最近、面白いと感じている。
物語に対する距離。
例えば、俺の物語は、真実を欠いているかもしれない。
おふくろが単に甘い卵焼きが好きだっただけなのかもしれない。事実としては、親父は甘い卵焼きが好きだったけれど、そこの語りの部分のつながりは、もう、曖昧なのだ。
子供が好きだからと書いたけれど、うちの子は、俺の作るしょっぱいタイプの卵焼きも、まあ、食べる。ここにも文章の流れには真実を欠いている点がある。あいつらは、どっちも食べる。
妻は、とくに意図しているわけではなく、卵焼きというものは甘く作るものだと認識しているだけの可能性もある。
得体が知れないというと大げさだけれども、
自分の語る思いとは別に、たとえ家族であっても、少なくとも、かなりバラバラに生きている。じぶんに一番近い人間だからこそ、自分のくだらない物語に回収してしまわないように、そのような得体のしれなさを発見できるよう、観察しようとしている自分がいる。得体のしれなさは、物語に対するアンチテーゼだ。その驚きは解釈を拒否してくるから新鮮だし、物語は解釈の拘束とでも言ったらよいか、つまりは呪縛を意味する。
先だって濱口竜介『悪は存在しない』を観た。
あの映画について、なにか語れるようなシネフィル的な素養も積み重ねも、もう、無いけれど、「絵に書いたようなクズばかりで安心しました」と語る黛の存在と、ラストの飲み込みづらさが今、頭の中に残っている。
都合の良い物語は息苦しいときがあるんだと。
得体が知れないなあと。
黒沢清の『ニンゲン合格』を、なぜか思い出しながら深夜。
#『悪は存在しない』
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