映画のことを。
ミニシアターが危機的状況に置かれている。様々な業界が危機的状況ではあるけれど、箱の大きさが決まっていて、入場料収入の上限が決まっているのだから危機をどうのりきるのかはとてもむずかしく、大変な状況だと思う。平田オリザさんがそのへんの話を詳しく書いている。なにかできないものかと思う。*1
僕は映画が好きだ。ウラジーミル・ガーリンのことを書く。
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「父、帰る」のお兄ちゃん役で出ていた男の子だ。ラストの彼の表情がとても印象的で、あーいい役者になるなきっとこの子。などと生意気に思っていた。強さと意思を感じる目。思春期特有の危うい魅力。ラストの非常に大人びた表情。
「父、帰る」という作品は、12年もの間「不在」にしていた父親がある日突然、母と兄弟の元に帰ってくるという設定で物語が始まる。作品自体にとても宗教色があるとされていて、いわゆる宗教学的な意味での「父と子」の関係をテーマにしてるともいえるのだろうし、もっと人間的に、男の子と父親の関係として、何をなせるのだろうという点でも、とても優れた作品だと思う。自分自身は父親の養子に入っているという人生であるが、父は僕と違ってあまり話さない人間なので、なおさら、黙ってはいるけれど、いろいろ機械を直せたり、いじれたり、どこかへ連れて行ってくれたり、なんかしらんが、怪しい繋がりで上手いことやっていたりという父親像は嫌いではない。結局の所、僕がこのロシア映画から学んだことは、こまごま自分で手直ししたり作りながら上手いことやりくりしていく具体的な生活力と好き勝手に生きているその背中が、父親としての一つの有り様であって良いといことで、それはとてもありふれているかもしれないが、今の自分にとっては、重要な指針と自信につながっている部分になってくれている。
で、ウラジーミル・ガーリン。
かれはそういう父親像のようなもの、父性の有り様のようなものを劇中で確実に引き取ったように映った。
ウラジーミル・ガーリン
しかし彼は映画の撮影直後、不幸な事故によって亡くなった。
彼が亡くなってしまっていることを知ったのは映画を見てから随分たっていたと思う。
なぜそのことが自分の心に引っかかるのか、今でも自分の心の揺れをよく理解できていない。
彼は亡くなり、もう永遠に彼に会うことはできない。「父、帰る」の映画の中で彼の無言の成長を追う。彼はもはや物語の中にしか存在しない。その物語の延長を。彼が成長していく姿を夢想してしまう。恥辱と鬱屈とコンプレックスにまみれた思春期の頃の自分にも成長と呼べるかもしれない現在があるのに、彼の現在は彼のことを覚えている人物、例えば僕の、夢想の中にしかない。
思うに、自分の現在が偶然と必然のバランスの上に成り立つ、たまたまそっちに傾いたというもので、本当にどうにもならずどこかでのたれ死んでいたかもしれないと思うと、彼の人生の延長を生きているような気にもなるし、いやいや、どっちかといえば弟役のイワンに近いような父との関係性だったなとも思うと、兄役の彼は、憧れの存在でもある。
失われ、もはや知るすべのないものー
それこそが彼のものなのだ。
彼は残さなかった。
なぜならば、それは彼のものだから。
従兄弟が亡くなった時、死者を思い、僕が日記に書いた文章をウラジーミル・ガーリンに捧げる。
…映画の話じゃなくなってしまった。
*1
http://miss-maple.jugem.jp/?eid=1877 写真お借りしました。
2020/05/10
#VOZVRASHCHENIYE
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#ウラジーミル・ガーリン
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